平和的に争いを終わらせるたった一つの方法
AIと何度も議論を重ねてきて、気づいたことが在る。「agree to disagree」という言葉の魔力である。日本ではあまり聞かないフレーズだが、「お互いの意見が違うということを認め、それらを尊重し、而して正しいとは認めず、二度とこの件について話し合わない」というステイルメイトへ持っていくための言葉である。私はこの言葉こそが争いを集結させる鍵ではないかと思い始めている。
無論、危険だ。要するに日本における「人それぞれ砲」と同義である。「人それぞれ」という言葉を使った時点でそれは議論の放棄であり、相互理解の放棄であり、戦争こそ免れど理解し合うことは永久にない。個人主義であり、国家主義であり、「和を以て貴しとなす」ことの対極のようにも見える。しかしagree to disagreeに関しては、実はわずかに「人それぞれ砲」よりも優れている。そしてこのわずかな秀抜が非常に大きな意味を持つのだ。
それは、agree to disagreeを行うためには「相互の同意」が必要であるということである。“お互い"が、ああ俺らはわかりあえないね、もうこの話はやめにしよう、と合意しなければ至らない。この点で「人それぞれ」とは全く異なる。なぜなら人それぞれ砲を成立させるためにはたったひとりの意思があればいいのだ。ぶっ放せば、終わり。合意など必要ない。一方的に会話を打ち切ることができる。
しかしagree to disagreeは、どちらか片方がそれを拒絶した場合成立しなくなる。この点が非常に大きい。それは裏を返せば、これが成立するならばその瞬間、この一点においては相互の尊重が生まれている。このほんの僅かな「リスペクト」が、起きていた争いやその後の遺恨を非常に巧く緩和してくれる。agree to disagreeは、「お前の意見そのものにこそ同意しないが、お前がその意見を持つという意思や権利は認める」という意思表示だからである。これは単なる議論の打ち切りではない。真なる意味での「尊重」であり、ともすれば「相互理解」である。
これは答えの出ない議論で水掛け論や感情論に発展してしまった時などに特に有用である。概して実に欧米らしい考え方といえよう。個人主義のメリットが際立った一例である。一部の辞書ではこれをan act of tolerationと形容していた。そう考えるとやはり私の処世術として適している。